流作場どっと萬代

身の周り 地域のはてな(⌒▽⌒)

新潟市にふくまれる(流作場のおいたち−13)

明治元年に新潟港が五港の一つとして開かれてからは、外国の船も入ってくるようになって、だんだん、新潟の町もはってんしてきましたが、港は流されてくる、土や砂のために浅くなり、何とかしなければならないありさまでした。その上日露戦争の後、けいきがよくなり、大きな会社や工場がどんどんたつようになりますと、山の下や沼垂を新潟市にふくめることがつごうがよいということになりました。そこで、大正三年、沼垂は山の下とっしょに、新潟市にふくまれることになり、したがって流作場も今のように、新潟市流作場ということになりました。