流作場どっと萬代

身の周り 地域のはてな(⌒▽⌒)

再出発の日

しばらくでした。
時間がとれるようになり、身辺整理して地域のブログに取り組む環境を整えたいです。
あれからずいぶん私の周り、地域が変わりました。
記憶に留め新たな展開をしたい。
今日のところはこんなところーーー

tad

万代小の敷地経歴について。

◆ 新潟市東万代町79番地
(万代小体育館敷地の一部)
個人篤志家より新潟市へ譲渡

◆ 新潟市東万代町80番地
個人篤志より新潟市へ譲渡

◆ 新潟市東万代町777−4
個人篤志家より新潟市へ譲渡

昭和26年、当時の万代小学校:竹山校長先生によりますと新潟市はグランドを学校敷地として、その譲渡を要請した。万代小の父兄であり卒業生である、〇〇さん、〇〇さんら、その他関係者は「(坪500円という地価は今では夢のような話ですが)みな万代小の父兄であって、子供のためにと」当時としても破格の値段で手放すことを快諾し、新潟市に譲渡されたと記述されております。

● 万代小の敷地。
安倍玄的外5名の地域開発の先人が、2,750両の下請金を上納して開拓した土地が、時代とともに民地としてまたは公共の用地として利用されてきました。今この地に住む私たちの原点が、古くは当時この地域の人たちの共同作業によってつくられた土地だいうことです。未来へこの土地を引き継ぐ時、高いビジョンが今の私たちに必要だと思います。

人形たちはいま

昭和2年(1927年)アメリカの子供たちから日本の子供たちへ友情の親善使節として、12,739体の「青い目の人形」が贈られ、またその返礼として日本の子供たちの「愛の献金」により58体の「答礼人形」が海を渡りました。この答礼 人形はその後61年の長い歴史と風雪に耐え、現在25体がアメリカ各都市の博物館や美術館に大事に保存され、健在であることが確認されています。また同時に日本各地には216体の「青い目の人形」が健在であることも判明しています。
以下

答礼人形の行事に参加し、この本に掲載されてる当時の万代小の生徒。
この方はどなたーーー。

昭和61年4月社団法人国際文化協会 朝日新聞社 財団法人そごう美術館
青い目の人形交流展
おかえりなさい答礼人形  から

万代小学校のサラちゃんについての記述とそのページのPDF

>>戦時中に職員会議で人形処分の話がでたが、校長と教師たち3人で宿直室の押し入れにしまった。昭和62年10月に諸資料点検中に、パスポートを発見した。当時の学校日誌が保存されている。①パスポートNO=3609 ②出生地=キャピタルオブウーエス ③関連保管品=パスポート、手紙、衣服

発展する流作場(流作場のおいたち−16)

今、万代橋の上に立って心地よいそよ風にふかれながら、流作場のほうを見わたすと、はるかにうちつづく越後の山々を背にして、大きな建物がぎっしりと立ち並び、ゆうゆうと流れる信濃川に、その姿をうつしています。きれいにほそうされた大通りをひっきりなしに走るさまざまの自動車。黒い煙をはきながら走る汽車の音。いそがしそうに行き来するたくさんの人々。いかにもぐんぐん発展しようとする町の活気にみちたありさまではありませんか。町の人は公民館を中心に、いろいろの会をつくり、又、自警会や赤十字、奉仕団、あるいはPTAなどをつくって、町をもっとよくし、発展させるために力をあわせてはたらいています。第九図をごらんなさい。新潟市全体の地図ですね。流作場は新潟市のどういう位置にありますか。位置からいえば新潟市の中心にあたりますね。新潟駅があり、又、港が近くにあることからいえば新潟市の表玄関といえましょう。新潟市は今人口22万、北陸地方第一の大都市として勇ましく発展しつつあります。私たちの流作場は、その大新潟市の表玄関であり、又、中心部なのであります。さてこの私たちの流作場を、もっともっと発展させ住みよい町にするには、私たちはどうしたらよいでしょう。
以上は昭和26年9月30日「流作場のおいたち」学校長:竹山洋一郎著からでした。
次回は昭和26年当時のようす
17 流作場の世帯数と人口
18 移住調べ
19 父母のおしごと
20 流作場の主な建物